第二音楽室

存在意義が問われる

東京ドームに行くということ

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正面から撮れよ…

 

ラブライブにとって東京ドームとは特別な場所だった(大体のアーティストにとってそうだろと言うのは無し)。

二年半前のあの日、μ'sはこの場所で終わりを迎えた。終わるわけではないと言ってくれたし最近合同イベントに数人参加することもあるが、事実上の解散であったのは諸兄らも知るところだろう。

 

 μ'sファイナルで我々はひとつ、奇跡を起こした。

界隈では幾度となく語り草になっている「僕たちはひとつの光合唱」現象だ。

あれはバックにインストが流れていたからとか、誰かが歌い始めたからつられてとか、そういう次元の話ではない、あの場(特に一日目)にいた人なら理解してもらえると思うが、あの瞬間間違いなく6万人の心がひとつになっていたと感じた。

感動?感謝?いや、そんな曖昧なもので心はひとつにならない。

”まだ終わってほしくない”

ダブルアンコールを歌い終え、最後の挨拶に入ったえみつんの言葉をなんとか遮ろうと、少しでもμ'sをステージの上に釘付けにしようと、そうした想い、我々の最後の足掻きの結実こそがあの合唱だったと思う。

締めの挨拶をやめて最後まで聴いてくれた彼女たちの表情は今でも脳裏に焼き付いてる。

 

さて、4thの話に戻ろう。

今回のライブは東京ドームが会場だったが、ファイナルではなかった、そのことがどう影響するのか興味深い点であった。

まずドームに足を踏み入れて思ったことが「広さ、こんなもんだっけ」

二年半前には途方もない広さに思えた東京ドームが存外に狭く感じた、自分だけの感覚かと思いきやキャスト達からも同じような話がこぼれ出てきて面白く思った、心の余裕の表れだったのかもしれない(多分西武ドームでドーム級の広さに慣れただけだと思うんですけど(凡推理))

ライブ内容については割愛する、というかよく覚えてない(ありがち)

特筆すべきなのは二日目、アンコールの後のことだ。

 鳴り止まぬAqoursコールに、ファイナルのμ'sコールを彷彿とさせた人も多いだろう、あの時は結局もう一度登壇させることはできなかったが今回は違った。さらにはThank you, FRIENDS!!の合唱も(アナウンスにぶった切られたが)起こりかかった。

あの日と同じようなことが起こったのは決して偶然ではないと思う、今回の公演にはファン側もキャスト・運営側もどうしてもファイナルを意識せざるを得なかった、今回の現象もまたファイナルの下地があってこそである。

しかしながら、今回は「ファイナル」ではない、同じ現象でも意味合いは同じではないはずだ。

 

終演後、人でごったがえす通路を出口に向かい牛歩しながら、キャスト達の涙の理由を考えていた。

連番者の人が言った「あの日置いてきた魂を取り戻したような気分だ」と。

不思議と腑に落ちた。

キャスト達もまたファイナルの光景を心に焼き付けたままここに来たのだろう、これだけのものを自分たちも作り上げられるのか、彼女たちこそ最もあの日あの時に魂を縛られている張本人だったのではないだろうか。

だから同じ景色を見られたことに感極まったのかもしれない。

 これを「解放」と呼ぶのはいささか分離主義的に思う、僕から見れば、今やっとバトンを受け取ったのだ。

これまでかかってきた先代の重圧はやっと背を押す追い風として本来の力を発揮し始めるだろう。

ここから先はμ'sすらも未踏の地、しかし恐れる必要はない、分からないということは如何様にも出来るということだ、きっと彼女達ならば。

 

 

 さて、未来をどうしようかな?